本日の○○(仮)

いろんなモノを書いたり『薔薇族』作ったり、幅だけはやたら広くやってるおっさんの身辺雑記です。オレに関心ない方にはあまりお勧めできないかもね(笑)。

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書評『エロの敵』(安田理央・雨宮まみ/翔泳社/1500円+税)

 この本の第一印象は、
「あ、教科書」
 だった。本文の書体(フォント)、級数(フォントサイズ)、組み方、どれをとってもあの懐かしい学業の友を彷佛とさせるのだ(ついでに手触りやの重量感も)。そして構成がまた一段と「教科書」。ワンテーマが最大でも二・五ページと短く、編者の感情を極力排した簡潔かつ客観的な文章でまとめられたそれらが、淡々と積み上げられていくのだ。
 いや、体裁や構成の話ばかりしていても仕方がないな。肝心の「テーマ」の話をせねば。
 ビデオデッキの一般家庭普及にはオマケAVが大きく貢献した、という四半世紀も前の逸話を持ち出してくるまでもなく、「エロ」の持つ力には底知れぬものがある。レンタルビデオ店が全国津々浦々にあれほど急速に広まっていったのも、やはりエロパワーあってのものだろう。健全なるロードショー映画だけでは、あれほどの隆盛は極められなかったはずだ。絶対。
 そのエロがいま急速に活気を失いつつある。いや、正確には「商材としてのエロメディアが」だ。インターネットで入手できる無料オナニーツールの台頭はいちじるしいので、一般ユーザーには「エロの衰退」などと言って全然ピンと来ないかもしれないが、危機的状況にあるというのは誇張でもなんでもない。エロで食っている人々は個人差はあれど、ほぼ例外なく青息吐息の状態なのだ。しかしまぁ、
「人間に性欲のある限りエロの需要が落ちることはない。だから、エロは不況に強い」
 なんてお気楽な都市伝説的学説(?)が、一般マスコミ人の間ではいまだ信じられているそうなのだから、シロート衆が気づいていないのも無理はないか。
 本書は、今日の未曾有の危機の原因が何であるのかを探るべく、アダルトメディアの歴史を、ヌードグラビア誌の元祖といわれる『100万人のよる』が人気を集めた昭和三十年代までさかのぼりながら検証したものである。冒頭で「教科書」と書いたが、まさにエロ界の「歴史教科書」。一時代や一分野を、特定の集団などを通して思い入れたっぷりに語ったものは過去にもいくつかあったが、これほど「広範囲」で、かつ「事実の列挙」に徹した資料というのはおそらく前例がない。
 閑話休題。タイトルに用いられている「エロの敵」とは、従来のそれであった官憲やPTAなどを指すものではない。それらによる「規制」「糾弾」というのは、仕組みがいたって明解であるから敵としては御しやすい。裏をかくことも比較的容易にできるし、逆に利用することだって可能なのだ。
 安田・雨宮両氏が「敵」としているのは、そんな単純なものではない。半世紀以上も連綿とつづいてきたエロ文化の存続を危ぶませている、「何か」のことなのだ。その「何か」とは単独のものではない。複数の要因が複雑にからみあって誕生したキメラのような怪物なのだ。本文の導入部で私は、
「インターネットで入手できる無料オナニーツールの台頭はいちじるしい」
 と書いたが、このあたりがその怪物の中核、関係者の誰もが認める目下最大の「エロの敵」であろう。最終章「エロは無料の時代」において安田氏は、AV業界に大打撃を与えている「ファイル交換ソフト」に触れ、国家機密の漏洩事件などで一躍悪名をはせた「Winny」について、アングラネットの事情通という人物からこんなトンデモナイ証言を引き出している。
「ほとんどの人気AVは見つかりますよね。S1の新作なんか、発売日の前日に流れてますよ。どうも中国の方のサーバーから来てるみたいなんですけど。(中略)こういうファイルを流してるのは、職人って言われてる人たちなんですよ。自分でDVDを買ったりレンタルして、データを吸い出して編集して、ジャケットのデータまでつけて流してますからね。どうしてわざわざそんなことをするかというと、単に喜ばれたりチヤホヤされたいだけなんです。いわばボランティア。それによって、メーカーに打撃を与えようなんて悪気はないんですよ」
 うひゃあ、これでは業者はどうやったって勝てるわけがないではないか。躊躇というものを知らないぶん、悪意のない暴力くらい恐ろしいものはないのだ。いや、ノンキに悲鳴などはあげてられない。私自身、「エロにどっぷり」と言うほどではないが、それでも半分くらいは浸りながら仕事している立場なのだから。他人事みたいな顔して語っている場合ではないのだ。
 果たしてこの状況に対する有効な対抗策はあるのか? という話になるのだが、安田氏は本書をこんなふうに締めくくっている。
「これだけ『エロはタダ』という概念が定着してしまった今、アダルトコンテンツを売るという発想では、難しくなっていくだろう。『エロは貴重なものである。だから買うべきだ』という従来の前提を捨て去り、全く新しい考え方が必要になるのだ。(中略)今から10年後、今の30代が40代になり、20代が30代になった頃、アダルトコンテンツはどんなユーザーが支えることになるのだろうか? 誰もエロにお金を払わなくなったとき、エロメディア、いったいどう変化するのだろうか?」
 そうなのだ。巨匠ミヤザキの大作アニメと同様(笑)、長い時間をかけてどれだけ語り尽くしたところで、答えなんか出てくるわけがない。このテーマは、それほど大きく、複雑な、構造的問題なのだから。タダ、無料、フリー、ロハという響きはたいていの人間が歓迎するものである。しかし、「タダより高いモノはない」という言葉があることも、人は知っておかねばならない。
「タダのエロ、万歳!」
 と我が世の春を謳歌している御仁は、そのあたりのことはキチンと考えておられるのだろうか? 未曾有の状況であるのだから、果たしてその後になんらかのシッぺ返しが来るものなのか、もしも来るとしたら一体どのようなモノなのか、皆目見当がつかないのである。ひょっとしたら取り返しのつかないような事態がこの先に待っているのかもしれないが、それはそれで甘受しなければならないでしょ。自分たちが進んで選んだ道なんだから。
 おっと、話がちょっと「タダエロ論」に偏りすぎてしまった。無料コンテンツは確かに「敵」のひとつではあるが、決してそれが全てなわけではないのだ。先に述べたように、「エロの敵」とは複合的な怪物である。それと闘っていくためには、全体を把握し、総合的に対処していく必要があるのだ。そのためには、エロを愛する一人ひとりが現実を正しく見据え、冷静に策を練らなければならない。
 その際に、この「教科書」はきっと真価を発揮すると思うのだけれど。
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  1. 2006/10/31(火) 13:20:12|
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特別編/こんな本はいかが?

 ご存知ない方のほうが多いであろうが、「ロゼッタストーン」という小さな版元がある。公式サイト(http://www.rosetta.jp/index.html)によれば「人間同士のコミュニケーションを大きなテーマに、書籍、メルマガ、学習ノートなどを発行している総合出版社」とあるが、まぁ弱小である。が、ルーティンワークで新刊を垂れ流している昨今の版元(オレは出版社も書店も、いったん全部潰れてしまえ、と思っている。そのあと、「ほんとうに本を作りたい!」「売りたい!」と思うところだけが闇市のように復興してくればいいのだ)とちがい、「これを作りたい! 売りたい!」といった気概の見える会社で、その社長である弘中百合子さんのweb日記を愛読させていただいているのだが、その中でここ数日、急きょ出すことになった新刊について触れている。ちょっと長いのだが、主だった箇所を抜粋引用させていただいているので、読んでみていただきたい。

【突然だが、昨日話を聞いた男性、矢野さんの本を出版することにした。昨年の12月6日に殺された息子さんの真木人(まきと)さんは28歳。犯人は、近くの精神科病院に入院中の患者で、社会復帰トレーニングのために、一時外出中だったという。犯人に責任能力があるかどうかの鑑定は、来月20日の予定で、28日には起訴されるか、不起訴になるかが決まるそうだ。
 ところが、矢野さんたち家族は、まだ犯人の病名すら教えてもらえないのだという。病院側からの説明も謝罪もない。不起訴が決まれば、犯人のカルテを強制的に出させる手段もなくなる。「なぜ真木人さんは殺されてしまったのか」という真実に、家族はちっとも近づけないでいるのだ。犯人が有罪か無罪かというのはその後の問題で、最低限の情報を被害者が知ることは、当然の権利なのではないだろうか。
「精神障害者の犯罪は、面倒くさがって不起訴にされるケースが多いらしいんです。処分が決まる日までに、なんとか世の中の人たちにもっと関心を持ってもらって、検察がいい加減な判断をしないようにしたいんです」と、矢野さんの奥さん。一時外出をさせていた病院の管理責任を問おうにも、犯人が精神障害者というだけで、弁護士はみな逃げ腰らしい。なんて、被害者の立場は弱いんでしょう。
 ロゼッタストーンは本当に小さな出版社だけど、矢野さんが一人で声を上げるより、本を出版することで、世間の注目が集まるかもしれない。来月の28日までに出版するのは時間的に非常に厳しいけど、「本を作る」と決めたら、即動けるのが小さい出版社ならではの機動力。「おかしいな」と思うことがあったときに「おかしい」と言うために、私はマスコミ業界に入ったのだもの。ここで動かなきゃ女がすたる…。

 矢野さんからは、続々と原稿が届いている。タイトルは『凶刃』に決まった。さあ、なんとか本を形にしなくっちゃ。

 読売新聞の朝刊に、矢野さんが本を出版するというニュースが掲載された。『凶刃』というタイトルもロゼッタストーンの電話番号も掲載されている。読者から何人か、問い合わせの電話もかかってきた。もっともっとたくさんのマスコミが注目してくれるといいのだけど。

『凶刃』の完成原稿が朝、届いた。主に父親の矢野啓司さんが執筆し、一部、母親の千恵さん、娘さんの奈苗さんも執筆している。それまでに啓司さんが文集のようなものを作っていたとはいえ、単行本化を提案したのが今月24日。矢野さん一家は、1週間もかけずに本を1冊書き上げたのだ。
非常に聡明な一家で、遺族の悲しみや犯罪被害者の立場を冷静に綴り、今の制度への疑問を投げかけている。精神障害者に関わる仕事をしている人はもちろん、マスコミや弁護士や検事や裁判官、政治家などにも読んでもらって、今後、みんなで知恵を出し合う参考資料にしてほしい。
 障害者問題に詳しい友人から、「“野放しになっている危険な健常者”の方が、よっぽど多いはずなのに、こういう事件があると、必ず、“何をするかわからん精神障害者を野放しにするな”というような声が大きくなる。精神障害をもつ当事者や、支援者の声にも、耳を傾けておいてほしい」という忠告をもらった。
マスコミ人として気をつけなければいけないのは、「正義の味方」を気取らないことだと思う。「正義」は立場によって変化しやすいものだから、信じ込むほど危うくなる。そのうえで、逃げることなく、問題提起は続けていかないとね。

『凶刃』なんとか、無事入稿?????ーーーっ!!(中略)本を出版すると決めたのが1月24日。最終原稿が来たのが30日朝(わずか5日!)。そこから4日でDTPと校正作業。今月末までには書店に並ぶはずだ。いやー、本って、急げばこんなスピードで出来るものだったのね。

 表紙のカバーには、黒地に赤文字で「凶刃」と大きく書かれている。とにかく、今月末に検察が処分を下す前に、少しでも多くの人の目に触れるようにと、インパクト重視でデザインしてもらった。でも、黒に赤の文字は、被害者のお母さんにとっては強烈すぎて、見るのが辛いらしい。その気持ちも、よくわかる。
 デザイナーさんや、お父さんの矢野さんと相談した結果、今回は、一般向けの黒カバーと、矢野さん家用の白カバーと、2種類カバーを作成することにした。これも、ロゼッタストーンとしては、初めての試みだ。

『凶刃』無事、校?了????っ! あとは、明日表紙のカバーの色校をチェックして、印刷が刷り上るのを待つばかり。短期間でやったにも関わらず、スケジュール通りに進んでいるのが不思議。人間、切羽詰まったときのほうが、なんとかなるものなのかもね。
著者の矢野さんは、知人の精神科医から「こんな本を出すと、袋叩きにあいますよ」と忠告されたと言う。誰から袋叩きにあうんだろう。個人が声を上げるというのは、やっぱり大変なことなんだなあ。
 著者は、息子さんを失った悲しみのなかで、可能なかぎり冷静に、今回の事件を分析し、問題提起している。もちろん、立場の違う人はいると思うけど、批判をするにしても、同じように冷静に、顔を出して反論してきてほしいと思う。
 もっとも、著者が袋叩きにあうのなら、出版社が非難される可能性もおおいにある。ま、失うものなんて、何もないから大丈夫だけど。】

 オレはここ十数年ずっと、「人権が人権によって踏みにじられている現状」について考えてきた。いや、考えさせられてきた。マスコミ人も法律家も、テレビに出てくる人間というのはノキナミ「加害者」の側の人権ばかりをヨイショするような連中がメインで、いちばん痛い思いをさせられている側の人権なんぞ「とるに足らないもの」とされているような気がしてならんのだ(いや、それは違う! と制作者側は言うかもしれないが、少なくとも一般視聴者、というかオレ個人にはそうとしか見えない)。 ホント、日本という国はガキとキ○ガイの天国である。
 だから、今回のこの出版で、現在の公平性にいちじるしく欠ける人権擁護主義(本来ならば手厚く保護されるべき被害者側に「泣き寝入り」の苦痛をおっかぶせることで、制度の歪みを不可視化しようとする法曹界の醜さよ!)というものに小石なりとも投じられたら、これは大きな前進であろう。小さな版元が、大手では二の足を踏むようなことをやらかす(というか、小さな版元だからできるのであろう。大手はどこも日和見傾向が強いから)というのはまた、とても痛快でもある。もしも世間のクソバカ人権家などに著者および版元が「袋叩きにあう」ようなことでもあれば(タイトルもかなり意味深で挑戦的なものなので、たしかにそういう場合もあり得るかも……)、そのときは読者らが援護して全面対決でもなんでもすればいい。「人権」という暴力に泣かされる人が少しでも減らせるのであれば、オレは立ち上がりますぜ!
  1. 2006/02/10(金) 19:43:32|
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書評『ブックカフェものがたり』(矢部智子ほか/幻戯書房)

 飲食店て、誰かといっしょの時でもないかぎり、基本的に利用しない男なんですよ。ビンボーな本読みにアリガチな、
「外食して散財するなら、自炊して浮かせたお金で一冊でも多く本を買いたい!」
 というタイプなんで。ですから、都内でも有数のグルメ地帯に住んでるくせして「どこにどんな店があって」「どこが美味しいか」なんて情報はまったく知らず、遊びに来た友人知人たちからはことごとくあきれられている次第です。
「なんで地元民なのに知らないのさ!?」
 と。ゴメンね、不粋な男で。
 同時に、もンのすごく他人に気を遣う性格でもあるんです。経営者でもなんでもないのに回転率までもかってに考えたりして、
「パッと注文して、パッと飲むなり食うなりして、パッと勘定はらって出てかないと店に悪いよな」
 とか思ってしまいます。だから定食屋でソースのしみのついた半月おくれの少年ジャンプとか読みながらタラタラと食ってるようなヤツを見ると、
「とっとと食って出ろや! 迷惑だろうがッ」
 などとお節介にも店主にかわってイラついたりしてるんです。我ながらちょっと病的ですね。
 そんな男ですから「世の中には“ブックカフェ”なるシロモノがある!」と最初に知ったときには、ちょっとした衝撃をうけました。
 だって本を読むってことは、一冊まるまる読了はしないにしても、けっこうな時間がかかってしまう行為じゃないですか。コーヒー一杯いくらするのかはわかりませんけど、たぶん何百円の範囲でしょ? たかだか何百円で何時間も居座られても我慢する……ていうか、
「おおいに長居してくださ?い」
 みたいなことを言えてしまう店主サンがいるなんて、にわかには信じられないわけですよ。生来のうたぐりぶかい性格なもんですから、「ウェルカム長居客」なんて口では言ってても、よく見ると眼は笑ってないんじゃないか? とか勘ぐってしまったり……。いま改めて思ったんですが、ヤッカイな性格ですね。自分で言うのもナンですが、あんまり友達になりたいタイプじゃないですよ。
 そんなオレが大胆にも今回、『ブックカフェものがたり』の書評モニターに加えてもらったのは、月並みではありますが、
「店主さんたちのホンネの部分を知ってみたい」
 と思ったから。どんな動機で「こういった店をやろう」と思い立ち、どういった手順でオープンにこぎつけ、何を思いながら日々の営業をつづけているのか……そんな、客として利用するだけでは見えないリアルなところを覗いてみたかったんです。
 さっきも言ったように猜疑心のメチャメチャつよい性格ですから、
「地域と出版業界の文化向上のために!」
 みたいな“キレイキレイのお話”的なものは基本的に信じません。“ヤなところ”とか“ナマグサイ部分”とか、そういうところを見せてもらってようやく「ちょっと信用しようかな」と思うわけです(あくまでも“ちょっと”ですヨ)。
 さて、そういった経緯で読ませていただいた『ブックカフェものがたり』ですが、うん、なかなかオモシロカッタです。さすがに“ナマグサイ”というところまではいきませんが、シビアな部分にもちゃんと言及していて、「イイことしか言わないヤツは嘘ツキ」を座右の銘とするオレでもシラけずラストまで読みきれました。
 また、ひとくちに「ブックカフェ」と言っても、店によってコンセプトや業態がちがう、というのも新発見。すべてが「店内の本をお好きに読みながら、ゆっくりお茶を楽しんでください」というわけでない(たとえば第二部『ブックカフェ開業講座』講師の石川あき子さんのお店のように“ブックショップ”と“カフェ”が独立しているトコもあるんですね)ってことも、この本を読んではじめて知りました。よかったですよ?、知らずに行って不作法なことしてニラまれちゃう前にわかって。
 閑話休題。ブックカフェ的なお店って、はた目にはかなり“パラダイス”ぽく映るじゃないですか。
「もののわかったオトナのお客様たちと深みのある会話を楽しみながら、一杯々々真心のこもったコーヒーを煎れる毎日……なんてステキ!」
 とか。勤め人生活に行き詰まっているタイプほどこの幻想をいだきやすいようであります。
 申しおくれましたが、オレは“ゲイ”という、まぁ、なんといいますか世間的なアツレキがなにかと多い人種に属しているんですが、そのせいか“お仲間”の中には現実にかなり疲れてしまっている人も少なくないんです。
 彼らというのはかなりの確立で、ブックカフェ的な店を開きたいとか言いますね(ゲイがひらくのはバーなんじゃないの? と思うかもしれませんが、チッチッチッ、最近はお酒を呑らないゲイも増えてるんですヨ)。
「お客様と温かいコミュニケーションのとれるスペースをもちたいんです!」
 と――。でも、話を聞いてみるとだいたいが「甘い!」。というか、ツライ(と当人の思っている)現実からの“逃げ場所”にしてしまっています。だから資金のメドをぜんぜん立てていなかったり、よしんば立っていたとしてもオープン後のヴィジョンがロクになかったり。要するに、
「なんとかなるデショ!」
 という楽観主義があるわけですよ、根っこのところに。徹底的“客観”人間(悲観、とはちがいますヨ念のため)であるオレとしては、ぶっちゃけ「イヤんなってしまう」感じなんですが、そういう人たちというのは総じて思い込みが激しいモンですから(そもそも“世の中に自分の居場所がない”とか“カフェを開けば居場所ができる”とかいうのも勝手な思い込みデス)、なにか言ったところでムダだろうと最初からあきらめ、ほっといてたワケなんです。
 けれど……ウン、今度からは『ブックカフェものがたり』を勧めてみようかな、と思います。登場オーナーのみなさんは基本的にポジティヴ人間なのか、あまり苦労談的な記述はありませんが、それでも「理想に賛同した善意の人々が助けてくれる」なんておとぎ話は、
「絶対にない!」
 ということはキッチリ書かれていますから、まぁよっぽどのオバカサンでないかぎり、計画のほころびをチェックしてくれることでしょう。そうでない人は、もう、ほっときます。
 と、ここでまたまた閑話休題。自分ももうけっこうイイ歳になりました。これまでずっと、
「食事なんてものぁただの燃料補給サ!」
 などとうそぶき続けておりましたが(かの宮崎駿センセイも同様のことを言っておられるそうですね)、さすがに最近はちょっと考えを改め(少しは“ゆとり”というものを持とうと思ったわけです)、“意図的に”独りで外食なんぞをするようになりました(まだ“楽しむ”という域には達してませんが)。
 というわけで、永らく様子をうかがい続けてきたブックカフェにもボチボチ行ってみようかと思っています。第三部(『ほかにもたくさんある、個性派ブックカフェ』)に、自宅近くのお店も、幸いいくつか載ってましたから。これもなにかの縁だと思って。
 どこかのお店のテーブルで、どこかギコチない様子で、巣穴から顔をだしたプレーリードッグみたいに周囲を見まわしてる客がいたら、それはたぶんオレです。挙動不審ではありましょうが、どうぞやさしく“見て見ぬフリ”をしてやってくださいね。
  1. 2005/12/17(土) 11:21:10|
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